東北タイ農村における、朝の私

「マリコ、マリコ、今朝は寺に行かないのかい?」
と、トンマー母さんが部屋の外から呼びかける。時間は午前6時半ごろだろうか。すでに明るい。あわてて起きて、家の外に飛び出す。
「行く、行く」

それが東北タイ農村での私の一日の始まり。

毎朝、村の女たちが寺へご飯とおかずを持って行く。ここ上座仏教社会では、僧侶は自分の食事を自分で用意することはない。必ず人が寄進したものを食べなければならない。つまり誰も養ってくれる人がいないと、飢え死にしてしまう。それが僧侶であることの最低条件。普段はトンマー母さんが、寺へ餅米とおかずを一品、持って行くのだが、私が居るときは、なぜか私の役目となってしまった。

トンマー母さんが、小さな米びつとおかずが入った皿を用意してくれている。私は小瓶に水を汲む。それらを篭に入れて、いそいそと寺へ向かう。すでに数人の女性たちが、寺へと向かう後ろ姿を追いながら、寺に着き、食事盆を用意し、人々が持ち寄ったおかず類をきれいに盛りつける。これもまた、私がいるときは、私の仕事となってしまった。

食事を僧侶に寄進し、お経を上げてもらい、持ってきた小瓶の水を流しながら、ここで生じた功徳が今は亡き近親者の元へ届くよう祈る。水はいろんなものを象徴的に運んでくれるのだ。「マリコは、マリコの亡くなったお母さんの顔を思い浮かべればいいんだよ」とトンマー母さんが言ってくれるので、私は生きている人も死んでいる人も全部ひっくるめて、多くの親しい人の顔をビデオの早送りのように頭に思い浮かべる。それぞれの人に、功徳が届くんだという。

僧侶の食事が終わるのを待ってする、後かたづけも私の仕事となってしまった。たくさん余った物は、持ち帰り、日持ちするような物は、戸棚に収め、食器を洗う。他の村人は、いい気なもんで、「マリコは、働き者だね。たくさん功徳を積んでいるよ」と言いながら、自分の皿まで私に洗わせようとする。もちろんそんなことで目くじらを立てない。だってここはお寺だもの。人に喜んでもらえるのは、気持ちがいいもんだ。

寺では食事の寄進にやってくる常連さんと仲良くなる。ほとんどは年配男女。特に女性の数が多い。そして最近の村の事件やうわさ話などを喋る場ともなるため、私はいつも聞き耳を立てて人の会話を聞いていた。同じ村に住んでいても、意外に他人事には疎いようで、このような人が集まる場で、「あそこの息子が今度結婚するそうだよ」とか「境内のトイレの修理をしなければならないけど、どうしようか」などなど、いろんな話が飛び出してくる。調査する私のような外部者にとって、人々の生活を知るのに大事な場所である。

でも逆に言うと、私が行かないとき、私が居ない場で、いったい私についてどんなうわさ話をしているのか、興味があるとともに、知るのが怖くもある。だからますます寺に毎日行くようになってしまった。

こういうものは習慣であって、習慣になってしまうと、朝になると寺に行きたくなる。バンコクのような都会に出ても、朝どこの寺に行こうか、どの道を僧侶が托鉢に回るのかをチェックする。この前まで泊めてもらっていたタイ人の友達の下宿は寺の真横。うれしかったが、結局食事の寄進には行かずに、募金箱に少額のお金を入れた。もちろんトンマー母さんを含め村人たちの顔を思い浮かべながら。マリコ
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by chachamylove2003 | 2005-06-04 00:54 | 東北タイ