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車に乗る僧侶

最近、記憶力減退。もしかして書いたことが重複していたらごめんなさい。
思いつくまま、こころのつれづれに。

タイの仏教といえば、早朝に僧侶が托鉢する姿を思い浮かべる人が多いと思う。ガイドブックにも必ず黄色い袈裟の僧侶の写真が載っている。
仏教に対する敬虔な態度から、僧侶は禁欲の修行者のイメージがある。
でも俗世間から見てみれば、僧侶も社会の一員にすぎない。

小さな地方の町の市場で、車を運転する僧侶を見た。
一人で車を運転し、買い物をして、荷物を車に載せていた。
「お坊さんが車を運転してるよ!」
と私は思わず叫んでしまった。その辺りで新聞を売っていた見知らぬ女性に向かって。
彼女は冷ややかに言った。
「あそこの寺には世話する人が誰も住んでいないから。お坊さんしかいないのよ」
だから、しかたないという意味の答えが返ってきた。

何度も書いたが、上座仏教の僧侶は227の具足戒を守って世俗社会から隔離された寺院などで過ごす。自分で食を求めるようなことはしてはいけない。お金を触ることもできなければ、仕事をして報酬をもらってもいけない。捨てられたものを食べ、捨てられた布を縫い合わせて着る。それがそもそも原始仏教における修行者の姿。

機械を操作することもだめ。車を運転するなんて、滅相もない。
よくタイ人に「日本のお坊さんってどんなの?」と聞かれるので
「毎月、うちの家にバイクに乗ってきて、お経を上げて帰るよ」
と答えると、いつも大爆笑。
「お坊さんが、バイクに乗るってーー!?」
タイ人を笑わせるにはちょうどいい。そして日本の仏教よりタイの方がいいのだとみんな満足そうな表情を見せる。

タイの仏教はウィナイ(winai律、戒律)を重視すると、タイ人は言う。戒律に厳しいと自分たちで言っているのだ。
確かに「こうあるべき」僧侶の姿はある。しかし戒律の解釈はその時々で変わる。2000年もの昔、貨幣がなかった頃、金銀の所持を禁じる戒律に従うことは私欲を捨てることだった。現在、修行者といえども、この社会で生きていく以上、現金を触ることもあるだろうし、食べ物がなければ買い求めたり作ることもある。そのような行為をすべて戒律違反だとしてしまうと、すべての僧侶が多かれ少なかれ戒律違反をしていることになる。だから僧侶が寺院の外に出るとき、おつきの者を連れて行く。レストランで注文したり、切符を買ったりするために誰かが必要なのだ。

同じタイでも場所によって、戒律の解釈は様々。
これは現代的な意味だけでなく、おそらく大昔からそれぞれの場所で、それぞれに解釈されてきたのだろう。そういう余裕や「あそび」がなければ、仏教が何千年も続くはずがない。

最近、都市の人々を中心に仏教が一種のブームとなっている。瞑想道場には多くの人が集まり、仏教解説書がたくさん出版され売れている。
そして高学歴の人々が行う仏教は、総じて戒律に厳格。
「これは許されていない」「あれについて仏陀は許していない」などなど、つまり頭で仏教を理解し、信仰しようとしている。
それでもいいけど、日常生活のなかではできないのよね、現実に。
自分たちでコミューンでも作って、独自の世界を築かない限りは。

托鉢する僧侶も「お、今日の食事はおいしそうだな」と思いながら、人々の間を巡り歩いているのだろうな。そう、考えること自体が、不謹慎?
それもまた人間。合掌、マリコ。
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by chachamylove2003 | 2008-04-07 02:09 | 仏教