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鶏との戦い

東北タイの農村で生きていくのは、たいへんだ。何がたいへんって、まず食べなければいけない。でも私には何ら食べるための手段がないのだ。

小さな村には、乾物やお菓子を売る小さな雑貨屋があるだけ。肉や魚、野菜などは売っていない。村人はみな、自分の畑から野菜を取り、池や川で魚を釣ってくるのだ。たまに結婚式などの行事があるときは、豚肉などの相伴に預かることができる。料理にしても、ガスがなく、火をおこして炭を使う。私はそのどれもができないのだ。小さな子供でさえ、おかずの足しになる鳥やトカゲをパチンコで射落としてくる。つくづく私が役立たずに思えてしまう。

もちろん食用にする家畜も飼っている。自家消費用の身近なタンパク質源としては、屋敷地内で飼う鶏や合鴨がある。何にもおかずがないとき、一羽、そしてまた一羽とつぶすことになる。
私と同居していた家の中学生の息子は、闘鶏が大好き。賭け事が好きなわけではなく、きれいな闘鶏を育てるのが好きなのだそうだ。

遠くの畑に小屋を作って鶏を飼うと、丸一日見張りを置いておかないと、誰かに盗まれてしまう。だから人が住むところに、放し飼いにする方が安心だという。闘鶏の血を引く鶏たちは、気が荒く、食欲も旺盛。人がこぼした残飯を食いあさる。何でも食べてしまうのだ。その中でも雄の鶏は特にどん欲で、気が弱い犬を威嚇して、犬のえさまでとってしまう。

そんな鶏がうろうろする屋外で、普段人間は食事を取る。昼間のメニューは決まっている。主食である餅米と未熟なパパイアサラダであるソムタム。それらを何人かでわいわい言いながらつついて食べる。たまに焼いたりフライにした鶏肉がつくと、豪勢な食事となる。

ある時、いつものように何人かの村人とお昼ご飯を食べていた。片手で、餅米をくるっと丸めてボール状にし、ソムタムの汁につけ、もう一方の手に骨付きフライドチキンを持っていた。風が吹いたような気がした。ふと気づくと、チキンがない。
<えっ?>
骨付きフライドチキンをくわえて走っていく鶏の後ろ姿だけが見えた。
<共食い・・・・>

「マリコ、ぼーっとしてるから、鶏にまで食べ物をとられるのよ。両手に食べ物を持つからいけないのよ」と言われる始末。

<鶏に負けた。悔しい>
人も動物も生きていくのに必死なのだ。マリコ
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by chachamylove2003 | 2005-05-28 23:12 | 東北タイ

日本の娘

東北タイの村でのこと。
暑い中、ふらふら私が歩いていると急に女の人が飛びついてきた。

「お母さんのところに、帰ってきてくれたのね!」

そういうと私をぐっと抱きしめる。<誰だ、この人?>
よく見れば、私が泊まっていた家の向かいに住む50代の女性。理解できないまま、抵抗せず、そのままの状態でいると、トンマー母さんが救援に来てくれた。
 
「この子は、あんたの娘じゃないよ。日本から来たんだよ。日本って遠いんだよ、知ってる?」

私はトンマー母さんに手を引かれ、やっと家に帰ることができた。
「彼女はね、かわいそうな人なんだ。結婚して子供もいたけど、気がおかしくなって、そしたら亭主が送り返してきて、それっきり。誰も会いに来やしない。だからあまり見かけない若い子を見ると、みんな自分の娘だと思ってしまうみたい」

彼女の家には、なぜか気の触れた人が多い。彼女だけではなく、亡くなった母親も妹もおかしかった。日常生活はできるので、普段はわからないが、たまに話をしていると、突飛もない話に飛んでしまうことがある。その原因をトンマー母さんは、暴力的だった父親のせいだと言う。今は年老いて寡黙な父だが、かつては些細なことで妻や子供を死ぬほど殴る人だったらしい。荒れる父から逃れて、トンマーの家に逃げてくることもしばしばだったという。

何が原因かわからない。でも今も彼女の話はおかしい。私は、日本に行った娘ということになっているらしく、彼女はいろんな人に私の(日本に行った娘の)話をする。トンマー母さんが「マリコは、あんたの娘じゃないよ。それにあんたの子供で日本に行った人もいないよ」と言い聞かせるのだが、納得できないようだ。「日本から娘が私に会いに来てくれたんだよ。いろんなおみやげを持って」

それでも彼女は明るい。私がそばを通ると、「ごはん食べたかい?食べてないなら、うちで食べな」と声をかけてくれる。状態がよさそうなので、つられておしゃべりを始めてしまうと、また始まる。「母さんはね、あんたが日本に行くとき、本当に心配だったんだよ。悪い人にだまされるんじゃないかと思って。もう行かないでくれよ。ずっと母さんと一緒にいておくれ」と、私にしがみつく。

そしてまたトンマー母さんの救援を待つことになるのだ。マリコ
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by chachamylove2003 | 2005-05-28 22:41 | 東北タイ

モー婆さんの最後

私も自宅で老人介護して看取った経験があるのだが、死を目の前にすると、心が穏やかではいられない。

元気だったモー婆さんも90歳の声を聞くころ、徐々に痴呆がひどくなってきた。体は元気で、病気らしい病気など罹った記憶はないというが、いつの頃からかお金に細かくなった。金にはうるさく、常に家計の管理は彼女がしていたが、時に「金がない、ここに入れていた金がない。きっと近所の子供が取ったんだ」と言い出すようになった。そのたびに、家族中が、あたりを探しまくるのだが、それらしいものは見あたらない。足腰が弱くなったので、遠くまで歩くことができないのに、「今日は畑に行ってくる」と言って、鍬を抱えて出かけようとする婆さんを家族が押しとどめることもあった。

もともと口うるさく、自分の好きなように生きてきた人なので、家族が何を言っても聞き入れようとしない。娘や孫娘たちは、だましだまし、うまく言いくるめて婆さんを落ち着かせようとしては、毎回怒られて帰ってくる。

「隣のおばあさんは、年を行けば行くほど、おとなしいかわいい婆さんになっていったのに、どうしてうちの婆さんは、扱いにくくなっていくんだろう」

こうだと言い出したら、絶対に言うことを曲げようとしない婆さんにつきあって、どれだけ家族は振り回されたか。それでも何とか婆さんに機嫌良く過ごしてもらおうとする努力は、並のことではない。同じ屋敷地内には、娘世帯が3軒、孫娘世帯が4軒立ち並ぶ。だから真夜中に「金がない」と言って大騒ぎするモー婆さんをなだめるため、日替わりで誰かが添い寝して面倒を見ていた。

そんな婆さんも、徐々に金にも興味がなくなり、下の始末も自分でできなくなってきた。誰が来ても、自分の世界に閉じこもり、ぶつぶつと昔のことを急に語り出す。たまに私も「私はだあれ?」と意地悪く聞いてみる。「日本人のマリコだよ。わかる?」

婆さんは、じーーーと私の顔をみて「マリコか。まだ結婚しないのか」
<何だ、ちゃんとわかってるんだ>
「結婚するなら、土地持ちがいい」
それなりに私のことを心配してくれている。

娘たちが集まると、この状態がどれだけ続くのか、ため息混じりに相談しあった。
「長生きするってことは、功徳が多いってことなんだろうけど、長生きしすぎて、ぼけてしまって、自分のことも、周りのこともわからず、人に迷惑をかけているのは、果たして功徳が多いってことなんだろうか。功徳を消費しているんじゃないか?」

それでも婆さんが、こけて頭を打たないように、あれこれ世話を焼いている。下の世話から、おしゃべり相手もする。こんな優しい子孫たちに囲まれて、死を迎えることができるというのは、やはり婆さんの積んだ功徳が多かったということなんだろう。

そして2002年にモー婆さんは亡くなった。多くの人に看取られながら、自宅で逝った。最後はほとんど寝たきりだったと聞くが、大往生と言えるのだろう。もうあの歌声も、意地悪な罵倒も聞けなくなるのかと思うと、心が重い。合掌。マリコ
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by chachamylove2003 | 2005-05-23 17:35 | 東北タイ

ハンセン氏病のおばあさん

私がいた東北タイの村には仏教寺院があり、共同体行事もすべて仏教がらみ。村民は全員仏教徒であると、つい書いてしまう。統計では国民の95%以上が仏教徒であるタイだから、あながち間違いではないのだが、自分の意志でキリスト教やイスラムを選んだ人以外は、自動的に仏教徒と呼ばれ、そう呼ばれても人は抵抗しない。

村で一人だけ、「私はクリスチャンだ」と言うおばあさんがいた。未婚の70代の女性で、若い頃ハンセン氏病を患ったため、手足の指がない。重労働や細かい仕事ができないので、以前は兄弟、今は姪っ子家族に養ってもらっている。クリスチャンになった理由を聞くと、かつて白人の牧師が来て、ハンセン氏病の治療薬を無料で配ってくれたという。隣の村には、本当に小さなカソリック教会とプロテスタント教会があり、やはりかつてハンセン氏病を牧師さんに治してもらった老人たちが集まる。

正確におばあさんの言葉をもう一度思い浮かべると、
「キリスト教を信じる(thu sasana krist)、白人を信じる(thu farang)」
「病気を治してくれたんだから、信じるんだよ(thu)」

thuというタイ語は、なかなか訳すのが難しい。一義的には「持つ、携帯する」、nap(数える)と合体して、napthuは、「尊敬する、信仰する」となる。仏教を信仰する、キリスト教を信仰する、そして白人を信仰する。どうしてこれらが平行に並ぶのだ?

こんな素朴な疑問をトンマー母さんにぶつけてみた。
「私が病気になったとき、マリコは薬をくれただろ。そのおかげで病気が治った。だから私はマリコをnapthuしてるよ。napthuっていうのは、そういうときに使うのさ」

癒しの力を信じるということだろうか。
マリコをnapthu(数えて携帯する)ということは、いくつもの力の源を体のどこかに隠していて、私もそのうちの一つとして数えられるようになったということだろうか。
仏教もnapthu, 白人もnapthu,マリコもnapthu、精霊もnapthu、教師もnapthu、年寄りもnapthu、お母さんお父さんもnapthu,,,,,,
数えて携帯する”もの”が多いこと、多いこと。

そのおばあさんは、キリスト教を信仰しているというけれど、一度も隣村の教会に行ったことがない。ずっと屋敷地内で生活している。たまに家を出るのは、町にある(元)ハンセン氏病病院に検査のためだけである。病院ができるまでは、白人牧師が、リヤカーで薬を配って回ったという。仏教寺院が近くにあるが、一度も行ったことがないという。しかし道行く人のために、飲み水を準備したり、できる限りの善行は行っていると力説していた。

いつも私にかみつくように喋る人だった。私が信仰に関する質問ばかりするせいかもしれない。うち解けないまま、今に至っている。指がない手を使って、箒で家の周りを掃いていた姿が思い浮かぶ。日がな一日、屋敷地内で綿糸を巻いたり、子供が遊ぶ姿を眺めていた。以前もそうだったし、これから先も同じように生活しているのだろうか。マリコ
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by chachamylove2003 | 2005-05-22 01:58 | 東北タイ

タイの車掌

タイにも長距離列車が走っている。しかし高速長距離バスの方が、安く、速く、サービスがよいため、なかなか利用する機会がない。特に、私がいるのは、東北地方のコンケン。一応、バンコクーノンカーイ間を走る列車もあるのだが、なんせコンケン発着がめちゃめちゃ早く、不便きわまりない。それでもたまに、バスではなく列車に乗りたい!と思って乗ることもある。そして乗るたびに後悔するのだ。

南部のリゾート地フアヒンに行った時もそうだった。東北地方の田舎にこもっていると、たまに「海が見たい!」と強く思うことがある。そして突然一人で海を見に行くのだ。フアヒンは、一番最初タイに訪れた時に行った、海のリゾート地。バンコクからバスで3時間ほどの近場にある比較的小さな保養地だ。突然フアヒンに行き、タイ人のおねえちゃんたちがヨーロッパ人の太って醜い男たちとたむろしているようなバーで、タイ語がわからないふりをしつつ、周りの会話に耳を傾ける。これ、私にとってタイの楽しみ方の一つ。

一泊して、さあ、またバンコクに向けて帰ろうとしたとき、ふと列車に乗りたくなった。駅で時間を確かめると、バスとさほど所要時間は変わらない。今から乗れば、昼過ぎにはバンコクに着く。ならばと、バスで帰るのをやめて、列車に乗り込んだ。

もちろん普通座席。木の堅い椅子。冷房なんてない。それでも外の景色を眺め、窓からの風を顔に受けていると、ああ、やっぱり気持ちいいなと感じる。バス路線と違い、列車が走るのは、もっと緑が残っている郊外である。走る速度だって、それほど早くないから、窓を開けたままでもいいのだ。隣のおじさんが話しかけてくるが、適当にあしらいつつ、列車の旅を満喫しようとしていた。

ところがふと気づくと、やたらに列車がジャンクションで止まるではないか。タイの線路は単線だから、しかたないかと思っていたが、それにしても走る速度までがあまりに遅い。<どうしたのだろう・・・>そのうちに乗客たちも騒ぎ始めた。この調子では、何時間かけてもバンコクに着きそうにない。車内放送によると、機械の故障のため、徐行運転しているとのこと。とりあえずは動いている。

昼を過ぎ、午後になり、夕方になった。まだバンコクに着かない。多くの乗客は、今日中に違う列車に乗り換えて、別の地方へと行こうとする人たち。たまに回ってくる車掌に、飛びかからんばかりに文句を言っている。

「いったい、いつになったらバンコクに着くんだ。自分にだって、これから先の仕事の都合っていうのがあるんだ。どうしてくれるんだ!」

車掌が答える。
「列車って言うのは、(競)馬と同じ。走って欲しいと思うときに走ってくれないんだ」
その答えを聞いた乗客は、黙ってしまった。そう、車掌に文句を言っても、列車が速く走るわけではない。これが日本なら、補償問題やら殴り合いのけんかやらで、大変なことになるんだろうな。さすがタイ人と思いつつ、私はあきらめの境地に達した。

結局その日、バンコクにたどり着いたのは、深夜だった。
それでも着いただけましだと思わねば。マリコ
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by chachamylove2003 | 2005-05-19 02:11 | タイ諸々

私が霊媒になったとき

ミイラとりがミイラになった話。

タイ国の東北地方で、私はいつも精霊やら霊媒師やらの話に耳を傾けていた。あちらに精霊を憑依する盛大な儀礼が行われると聞けば、時間とお金が許す限り行くようにしていた。ただ不便なところが多いために、なかなか「足」を確保するのが難しく、ましてや行った先では、知らない人の家に「お願いします」と宿まで頼まなければいけないので、女の一人旅では、なかなか難しい。だから通訳としてではなく、自分の安全のために、タイ人の学生を連れていくようにしていた。

ある時、プータイ族の村で、霊媒に話を聞くと、近々霊媒たちが集まって、歌い踊りながら憑依を繰り広げる年中行事が行われるという。喜んだ私は、その日に改めて村を訪れた。

プータイ族の霊媒は、モー・ヤオと呼ばれる。主に治療儀礼を行うのだが、その時精霊を憑依させて踊り謡う。色とりどりの衣装をつけ、頭には赤や白のはちまきを締め、刀を手に踊るのだ。その村での集会には、10人以上のモー・ヤオが集まり、盛大に歌と踊りの祭典を繰り広げていた。

私はいつものことながら、フィールドノートを手に、儀礼を観察しながら、何時何分に誰が何をしたのかを、なるべく詳細に書き落とそうと努力していた。その頃、ビデオカメラを買う余裕がなかったため、書く速さはピカイチだった。

霊媒は女性ばかり。その中に一人若い男性が混じっている。一目で、カトゥーイ(おかま)だとわかる。彼は元気に飛び回り、『香水nam hom』と呼んでいる地元の米で作ったどぶろくを参加者にふるまい、自らもあおった。

私にも「天からの香水だよ。飲んでも酔わない」と言って、強く勧める。あまり断るのも悪いかと、小さなコップに2杯ほど飲んだ。このような自家製どぶろくのアルコール度数は、それほど高くないため、このぐらいで酔っぱらう私ではない。ちょっと前までは、ビールなら半ダース、ウイスキーのボトルなら半分、日本酒なら5合ぐらい飲んでもちゃんと家までたどり着けた。多少酒に弱くなったとはいえ、酒に飲まれることは絶対にない。

そんな私が、2杯目のどぶろくを飲んだ時点からの記憶を失った。

次に気づいたのは、知らない人の家で、布団に寝かされていた。遠くから、ケーン(笙)の音が聞こえてきたので、目が覚めた。もう明け方だった。

<記憶がない。どうしたんだろうか>

家の外にでて、一緒に来たタイ人学生を捜す。彼女を捕まえて聞く。「私、昨日何してたの?」

彼女は答える。「何って、ずっと踊ってたわよ!」

彼女の言うように、私は他の霊媒たちと一緒に、踊っていたらしい。そして夕食も食べていたようだ。<信じられない>私はショックだった。どんなに酔っぱらっても、記憶をなくすことは今まで一度もなかったのに・・・。まさか、どぶろくにドラッグが混ざっていたのだろうか・・・。

村人たちに会うと、みんな、にこにこしながら「元気?」と聞いてくる。
<私、昨日何をしたのだろう・・・>
村人たちは、人がよさそうだし、私は大丈夫そうだ。ドラッグなんか入れる人なんていなかったのだろう。

記憶喪失のショックから、未だ立ち直れない。恥ずかしくて、二度とその村に行けそうにない。でもビデオカメラがあったなら、踊る自分の姿を見ることもできたのかと、少し残念でもある。そんな自分は、やはり霊媒に見えるのだろうか。マリコ
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by chachamylove2003 | 2005-05-18 03:32 | 東北タイ

フィールドと私(2)コミュニティ

一番長期間世話になった東北タイの村の世帯数は、約100戸。一世帯約5人いるとして、だいたい500人の人々と知り合いである。名前が出てこなくても、だれそれさんの、孫娘であるとか、娘婿であるとかと説明されれば、村の中の親族関係はすべて頭の中に浮かび上がってくる。都会では味わえない密度の濃いコミュニティが、そこにある。

長くいると、噂、陰口などコミュニティのよくない部分も見えてくる。小さな村でも揉め事は、たくさんある。若者の非行(飲酒、ドラック、不純異性行為、暴力)、選挙がらみの汚職、グループ派閥などなど、聞きたくないことも聞かなければならないことがある。

特に私がいた村の村長という役職について、ずっともめていた。40代後半の村長が、村長選挙に出たのは、まだ20代半ばのことだった。彼は、結婚後、この村にやってきたが、働き者で頭の切れる男だった。村で初めて精米機を買ったのも、養豚を始めたのも彼であり、今では養豚よりも車で走り回って、豚の売買だけをするようになったため、収入も他の村人とは格段の差がある。

やり手ではあるが、それだけでは村長に選ばれる資格はない。対抗馬は、村人の尊敬も集めていた、この村で生まれ育った年配男性だった。勝ち目はないと思ったが、彼は妻の親族と金を使った(という話)。そして20代から20年ほど村長として働いてきたわけだが、今になって「村長として不適格」であると、村人たちからリコールを食らってしまった。

リコールにいたる噂話などなども、山ほどあるが、結局は金と利権がらみ。「うちの村長は、いつも豚の尻ばかり追いかけているのさ」「いつも村長の給料をもらいに行くときだけ、役所に行く。他の共同体行事には一切でない」などなど。

リコールされた彼自身は、仕事で村の外を飛び回っているが、妻はいつも家にいたため、村の中で居心地が悪かったようだ。そして彼女と話をする私も、一層居心地が悪かった。

「マリコはどっちの味方?私の言うこと信じるの?それとも陰口を言っている方を信じるの?」

この村を親族関係から見ると、大きく2つに分けることができるが、私は彼女を含む親族関係と違う方の家にお世話になっていた。実は、私と親しい人々は、村長の悪口、陰口を毎日言っている。そして私も、「そうや、そうや」と調子に乗って陰口をたたいていたのだ。

彼女は私のインタビューにいつも冷たく応じる。この家では、非常にインタビューに困った。簡単なことも、彼女は私を避けて、動き回って答えようとしないのだ。そこで、冗談を言ったり、明るい話をして、彼女の注意をひきつけようと努力する。

「町に住んでいる娘と、同居したいと言ったら、家が小さいからだめって言うのよ」と、私に愚痴を言い始めたら、しめたもの。機嫌が直り始めたのだ。
「いったい私は、どこに住めばいいのよ。ここだって嫌。人の噂話ばかり。まじめに子供たちのためだけのことを考えて、働き、お金をため、大学に行かせたのに。どうして批判されなきゃいけないのよ」

心の中では、<村長なんだから、村のための行動もしないといけないのでは・・・>と思いつつ、ここでも「そうや、そうや」とうなずく私。こんなカメレオンのような、こうもりのような行動をとっていると、今度は親しい村人に「村長の奥さんと、いったい何を喋っていたの?」と聞かれる。

ああ、濃厚なコミュニティに暮らすとは、難しいこと。どう答えればいいの?マリコ
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by chachamylove2003 | 2005-05-14 01:52 | 東北タイ

フィールドと私(1)

母親に恵まれなかった私にとって、東北タイ農村に住むトンマー母さんは、本当に母のよう。いつまでたっても結婚しない私を心配して、「結婚しなくてもいいから、養子をもらうなりしないと、年いったとき困るでしょ」としつこい。つきあいも10年を越えると、トンマーの体力的な衰えを目にして不安になる。

調査のためにフィールドに滞在し、その調査対象である人々の生活や人間関係の中に、まず埋没するのは、学生として当たり前のことだが、その現場からどのように距離を離していくかによって、たぶん「研究者」と「研究者になりきれない者」とが分かれていくのだと思う。

一度調査を終えたフィールドには、二度と行かないという人もいる。個人的事情もあるから、それはそれでいいのだろうけど、少なくとも、私はどっぶり埋没型であり、調査結果を書けない学生。どうして書けないのか。私が相手にしたものは、人間であり、その個人の顔がついつい目に浮かんで書けない。一つの語りや質問票では単に「1」として数えられるものの中身が、現実にはあまりに多様であることを知っていて、その多様な人々の生き方を一言でまとめてしまっていいものかと、いつも悩み苦しむ。

もし書類や文献を相手にしていたとしたら、こんな悩み方はしないのだと思う。文献の向こうに見える人々を想像することと、実際生きている人間の行動や語りから、その人々を描写することとは全く異なる営みだ。そして肝心なことは、彼らはそんな書いた物が欲しいわけではないということ。それよりも、ここにいるマリコという日本人ともっと顔をつきあわせていたいと言う。私が住むための部屋を用意してやるから、早く移住しに来いと再訪するたびに言われる。

村にいたとき、一人の女性と道ばたで出会った。
「マリコ、今朝はお寺に来なかったね(毎朝、僧侶に食事を持って行く役は私だった)。どうしたの?代わりにトンマー母さんが来てたから、『あんたんとこの、日本人の娘は今日、来ないのかい?』って聞いたのよ」

金持ち国日本から来た私が、いつもトンマーのところに泊まるので、他の村人からすると、いろいろな意味でうらやましいことから、皮肉混じりに、彼女に私のことを聞く人は多い。「マリコは家賃としていくら払うのか」「マリコが家を建ててくれるのか」と言うように。そんなとき、トンマーはいつも、冗談を交えながら、軽く受け流す。

トンマーはお寺で他の村人たちの前で、私について
『マリコは前世で私の娘だった。だから現世で出会えたんだ。だから来世ではまた私の娘として生まれてくるんだよ』と言ったと、女性は告げてくれた。

「あんた愛されてるね」

そうなんです。トンマーは私にそんなことを言うわけではないけれど、いつもかけてもらっている愛情は感じています。こんな満ち足りた家族生活というのは、私にとって経験のないことだった。

トンマーの言葉のように、来世では彼女の娘としてちゃんと生まれたいと思っている。そんな私は、完全に「研究者になりきれない者」に分類される。でもフィールドワーカーとして、この言葉は勲章として私の心の中に大切にしまっている。マリコ
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by chachamylove2003 | 2005-05-08 17:44 | 東北タイ

コンケンの泥棒

私が住むところは、日本で一番ひったくりが多い地区らしい。もちろん違法駐車も日本一多い。住みにくいのかというと、そうではなく住宅地として最近は時価が上がってきているくらいだから、住みたいという人は多いようだ。

昔ながらの、アパートや長屋、そして商店街が残りつつも、新しいスーパー、マンションなどが集まるところ。ごちゃごちゃしているというのが、私の印象。

そんなところだから、住宅地にしては強盗なんかも多いらしい。この前、すぐそばのコンビニに強盗が入った。でもその強盗は、包丁を自分の首に突きつけ、「来るな!来たら自殺するぞ!」と言いつつ、パンやおにぎりを食いあさったという。生活保護を切られて、おなかが空いていたそうな。

なんだか、寂しいような、怖いような。かわいそうと言ったらいいのか、どうしたらいいのか。

タイのコンケン大学のそばに住んでいた時、私はどろぼうに会ったことがある。

その頃住んでいたのは、小さいながらも二階建ての家だった。その日、午前3時頃まで本を読んでから2階で寝た。すぐに熟睡したが、ふと目を開けた。夢かどうかわからないまま、<目の前に白い服を着た人がいるなあ>と思っている自分がいた。

<でも待てよ。昨日は誰もうちに泊まらなかった。一人で寝たんだっけ。じゃあ、これは誰?>

人間の声とは思えない音を発してしまった<ぎゃーーーーー!
そうすると、ばたばたという、人があわてて階段を下りていく音を聞いた。<本物だ>

もうすでに5時をすぎ、外は明るくなりはじめていた。そろそろと階段を下りると、誰もおらず、窓の格子がゆがみ、中の網戸ははずされていた。そこから手を入れて、ドアのかんぬきを抜いたようだった。

コンピューター、カメラを探す。<あった>
財布を捜す。あったが、入っているはずの500バーツほどのお金が抜かれていた。財布の中の現金は抜かれたが、なぜか元々入っていなかった20バーツが入っていた。<???>

後日、友達にこのことを言うと、「親切な泥棒じゃないの。とりあえずの食事代だけは置いていってくれて」と、笑われた。でも寝姿をみられた私は、笑うことができなかった。警察はその泥棒が裏の村の若者であると突き止めることができたが、彼はすでにバンコクへ逃げた後だった。ちかん泥棒のようなことをこれまでに何度もしていた前科があったらしい。

私はそれから、今に至るまでずっと、寝ているところを人に起こされると、恐怖で飛び起きてしまうようになった。目覚まし時計や猫なら、起こされてもびっくりしないのだけれど。これもトラウマ。それにしても、あの20バーツは、何だったんだろう?マリコ
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by chachamylove2003 | 2005-05-07 23:29 | タイ諸々

ベールがかかった日本、生のタイ

自分でいうものもなんだが、今まで、よくもまあ、あちこち、ふらふらしてきたものだと思う。何を得たのかと問われれば、何があっても動じず、落ち着いて対処することを学んだと答えるようにしている。

生まれ育った日本にいると、町や人がオブラートやベールに包まれているような感じがするのだが、タイにいると人間の欲望も希望も、生のまんま転がっているような気がする。住みやすいのはどこか?という問題ではなく、汚さもうっとうしさも生のまま、目の前にさらけだした現実に圧倒される方が、生を実感できる。それは、たぶん釜ヶ崎や新世界の近くで育ったせいかもしれない。

後から考えるとぞっとしたことだが、昔まだタイに行き始めた頃、バンコクのタイ人の世話で一時期、家の一部屋を1ヶ月間借りていたことがある。3LDK+女中部屋という家の他の住人は、家の持ち主の会社で働くOLであり、私は、帰国の飛行機を待つ期間、のんびりするだけだったので、昼間一人でいることが多かった。後、女中部屋には、その会社の清掃をするおばさんが住んでいた。

ある日、一人で過ごしていると、誰かがバイクでやってきた。
「プック、いる?」と、若い男性がバイクに乗ったまま、柵越しに聞いた。
私は、この家の住人の名前を知らない。何せタイ語もまだよくわからなかったのだから。
つたないタイ語で、「誰のこと?」と聞くと、彼は「プックだよ。知らないの?」と繰り返す。
とりあえず今私しかいないため、わからないと伝えると、今度は
「”コーン(物)、預かってない?」と聞いてくる。
<コーン>というのは、一般的に「物」のことを指すので、何を言っているのか私にはさっぱり。
「”もの”って何?」と聞くと、彼は苛立つように「”もの”だよ”もの”!」

さっぱり訳がわからないまま、彼は去り、私は部屋に戻った。
その日の夕方、電話があった。住人たちが働く会社からだった。
「マリコ、早くそこを出て、オフィスに来なさい。プックが、覚醒剤売買で捕まった。ヤクザが来るかもしれない」

ぞっとした。あわててオフィスに避難。プックはやはり掃除のおばさんのことだった。彼女自身は、警察官のぬれぎぬだと言っているのだが、逮捕されたのは確かだった。
昼間<コーン>を探して人が来たことを告げると、人々は「やっぱり、、、、」
そして彼女の部屋をあら探ししたのだが、何も出てこなかった。

あのおばさんが・・・・。
私には、何がどうなっているのかわからなかったけれど、そのおばさんは、そのまま刑に服すことになった。<コーン(物)>という単語は、こういう時にも使うのかと、なんか変に納得したものである。

タイは覚醒剤中毒が多いんだなあと思っていたら、帰国後近くの西成で覚醒剤を売る小屋が常設されていたらしく、検挙の記事。日本では単に見えていなかっただけなのか。マリコ
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by chachamylove2003 | 2005-05-07 09:43 | タイ諸々