カテゴリ:仏教( 9 )

シンクレティズム?

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(向かって左)うちの先祖代々の仏壇。真言宗。
       お骨は、市営霊園と高野山に。
(真ん中)かつての飼い猫チャチャの仏壇。上座仏教。
       お骨は東北タイの寺に。
(向かって右)実母の祭壇。浄土真宗。
       お骨は、どこへ?

実母は未婚だったので、おそらく祖父母のお墓に納骨するのだろう。
でも49日まで、私が預かることにした。
先の養母の一周忌が終わったところ。
今年は3回忌をしなければいけない。

こんな仏壇の並べ方では
みんな生きていたら、すごい喧嘩になっただろうなあ。
でも私を中心にしてみれば、みんな大切。

合掌。
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by chachamylove2003 | 2011-05-17 01:57 | 仏教

メー・スックの追善供養

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朝のお寺。食事を寄進している様子。

メー・スックは苦労人である。
多くの子供を育てただけでなく、夫を早くに亡くし、そのときの治療費を捻出するために、すべての土地を売ったことから、長らく生きていくのに必死だった。
子沢山が幸いし、メー・スックの面倒を見てくれる娘や送金してくれる息子が、入れ替わり立ち代り現れるため、現在は老後の安定した生活をしているようにみえる。
しかし子供たちのなかには、幼い頃亡くなったり、けんかの最中に拳銃で撃たれて亡くなった者もいる。また離婚・死別・再婚などを繰り返す者やアル中気味の者もいる。
子供や孫に何か不幸があるたびに、メー・スックは立ち上がる。
立ち上がると言っても、お金や権力は、それだけで解決できるほど持っていない。
お金で解決できないことは、占いや神託に託すのである。
あちらこちらの占い師に相談したり、お祓いをしてもらったり。
占いや神託のうえに、功徳を積み、それを転送する追善供養も定期的に行っている。

いつも死者に花を手向け、気にして生きているメー・スックにとって、
寒い夜は、幼少の頃亡くなった子供に思いを馳せる。
「あの子もあの世で寒がっているのではないだろうか」
メー・スックにとって、あの世はパラレルワールド。
いとしい子供は向こうの世界で、こちらと同じような生活をしている。
ただ自分には直接、触ったり目にすることができないだけ。
どうしても気になり、何十年も前に死んだ子供の追善供養のために、供物をそろえた。
僧侶が使う道具セットと子供用の毛糸の帽子とカーディガン。
それをある日、朝の食事の寄進のときに、食事とともに僧侶に差し出した。
僧侶はそれらを受け取ってから言った。
(僧侶は寄進されたものを拒否できない)
「こんなもの(子供用の毛糸の帽子とカーディガン)、僧侶は使えない。僧侶には僧侶の作法がある。僧侶には僧侶の着物(黄衣)があり、それ以外のものを身につけることは戒律に反することである。正しくない行いは、他の人が見て継承してしまわないように、きちんと正さなければならない。それ相応の規則に従って正しく行わないと、大きな功徳を積めない」

これを聞いたメー・スックは心の中でこう言ったそうだ。
「これらは、死者に手向けた供物であって、僧侶にあげたんじゃない。僧侶が使えないものであることぐらいわかっている。ずっと私はこうして来たのだから、これからもこうするのだ。別の寺で同じように追善供養をして、子供の服を差し出したとき、僧侶は黙って受け取ってくれたよ。そして後で貧しい子供たちに配っていた。そんなこと、わかっている。別に貧しい子供たちにあげたくないわけじゃない。死んだ私の子が寒がっているんじゃないかと思って、あげようとしただけ。その後、誰に使ってもらおうとかまわない」

メー・スックに同意する人は多い。ある人は「僧侶は郵便配達人なんだから」と言う。
つまり僧侶は、功徳を向こうの世界に転送する役目を担っている。それだけでなく、それ以外のことはできないという意味も込められている。だから黙って功徳を転送していればいいものを、文句を言うなんて、、、。と、いうのが、特に年配女性の意見。
でも直接、僧侶本人に愚痴を言うわけではない。黙っているか、僧侶の陰口をたたくだけ。

「これまでずっとこうしてきたから、これからもそうする」というメー・スックの言葉には、僧侶への少しの怒りと自分たちの宗教的実践に対する自信が見て取れた。メー・スック、偉大なる母です。尊敬。合掌。マリコ
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by chachamylove2003 | 2008-12-30 23:58 | 仏教

車に乗る僧侶

最近、記憶力減退。もしかして書いたことが重複していたらごめんなさい。
思いつくまま、こころのつれづれに。

タイの仏教といえば、早朝に僧侶が托鉢する姿を思い浮かべる人が多いと思う。ガイドブックにも必ず黄色い袈裟の僧侶の写真が載っている。
仏教に対する敬虔な態度から、僧侶は禁欲の修行者のイメージがある。
でも俗世間から見てみれば、僧侶も社会の一員にすぎない。

小さな地方の町の市場で、車を運転する僧侶を見た。
一人で車を運転し、買い物をして、荷物を車に載せていた。
「お坊さんが車を運転してるよ!」
と私は思わず叫んでしまった。その辺りで新聞を売っていた見知らぬ女性に向かって。
彼女は冷ややかに言った。
「あそこの寺には世話する人が誰も住んでいないから。お坊さんしかいないのよ」
だから、しかたないという意味の答えが返ってきた。

何度も書いたが、上座仏教の僧侶は227の具足戒を守って世俗社会から隔離された寺院などで過ごす。自分で食を求めるようなことはしてはいけない。お金を触ることもできなければ、仕事をして報酬をもらってもいけない。捨てられたものを食べ、捨てられた布を縫い合わせて着る。それがそもそも原始仏教における修行者の姿。

機械を操作することもだめ。車を運転するなんて、滅相もない。
よくタイ人に「日本のお坊さんってどんなの?」と聞かれるので
「毎月、うちの家にバイクに乗ってきて、お経を上げて帰るよ」
と答えると、いつも大爆笑。
「お坊さんが、バイクに乗るってーー!?」
タイ人を笑わせるにはちょうどいい。そして日本の仏教よりタイの方がいいのだとみんな満足そうな表情を見せる。

タイの仏教はウィナイ(winai律、戒律)を重視すると、タイ人は言う。戒律に厳しいと自分たちで言っているのだ。
確かに「こうあるべき」僧侶の姿はある。しかし戒律の解釈はその時々で変わる。2000年もの昔、貨幣がなかった頃、金銀の所持を禁じる戒律に従うことは私欲を捨てることだった。現在、修行者といえども、この社会で生きていく以上、現金を触ることもあるだろうし、食べ物がなければ買い求めたり作ることもある。そのような行為をすべて戒律違反だとしてしまうと、すべての僧侶が多かれ少なかれ戒律違反をしていることになる。だから僧侶が寺院の外に出るとき、おつきの者を連れて行く。レストランで注文したり、切符を買ったりするために誰かが必要なのだ。

同じタイでも場所によって、戒律の解釈は様々。
これは現代的な意味だけでなく、おそらく大昔からそれぞれの場所で、それぞれに解釈されてきたのだろう。そういう余裕や「あそび」がなければ、仏教が何千年も続くはずがない。

最近、都市の人々を中心に仏教が一種のブームとなっている。瞑想道場には多くの人が集まり、仏教解説書がたくさん出版され売れている。
そして高学歴の人々が行う仏教は、総じて戒律に厳格。
「これは許されていない」「あれについて仏陀は許していない」などなど、つまり頭で仏教を理解し、信仰しようとしている。
それでもいいけど、日常生活のなかではできないのよね、現実に。
自分たちでコミューンでも作って、独自の世界を築かない限りは。

托鉢する僧侶も「お、今日の食事はおいしそうだな」と思いながら、人々の間を巡り歩いているのだろうな。そう、考えること自体が、不謹慎?
それもまた人間。合掌、マリコ。
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by chachamylove2003 | 2008-04-07 02:09 | 仏教

異邦人の立場

外国人、その国に所属していない異邦人としての立場が好きだ。もちろん定住して日常生活を送ろうとすれば、様々な障壁に出会うことになる。でも、その社会に帰属していないからこそできることがたくさんある。

それは、ありとあらゆる階級や職種の人々と話すことができること。王族、ビジネスマン、公務員、街の屋台のおばちゃん、カフェーのおねえちゃん、ゲイバーのおにいちゃん、ストリートチュルドレン、、、。タイの人の最初の印象は優しい。

でもそれは、私が日本人であるから。もしビルマ人やカンボジア人だったら、たぶん違う扱いを受けるのだろう。昔、南アで日本人が名誉白人として、中途半端な扱いを受けたように、または金持ちの日本人として。嫌でも、自分の日本人であることを変えることはできない。

タイに行くと言えば、バンコクを素通りして、すぐに東北地方の農村に行ってしまう私にとって、田舎の人々や彼らの習慣は、親しみのあるもの。ところがバンコク生まれのバンコク育ちの人々にとっては、「東北タイ?イサーン?一体何があるの?電気、通ってる?生肉食べるの?」という印象しかない。

東北タイには、常に貧困のイメージが付きまとい、映画やTVなどのマスメディアでも、「田舎者」「貧しい農民」「学歴もない」「可哀想な人々」として描かれることが多い。そんなところに、日本人である私が行くこと自体が、不思議でしかたないようだ。

特に私が、問われるまま、中間層以上のバンコクの人たちに、「東北タイ農村で女性の宗教実践について調査しています」と言うと、一様に驚きの声があがる。

「まあ、可哀想に。村の人は、何の仏教知識もないわよ。あの人たちには、学歴もないし、間違った仏教を実践しているのよ」

中間層以上の人々、特に女性は仏教関連書を読み、瞑想修行を定期的に行う人が多い。そしてある種の宗教団体や僧侶に傾倒している。基本的にお勉強好きの人たち、例えば教育者(でも仏教研究ではなくって、結構理系に多い)、公務員の中間管理職、ビジネスウーマン、商店店主など、最低学歴が大卒。

優しい彼女たちは、仏教を知らない日本人の私に「正しい」仏教を教えようと、お寺や瞑想修行に誘ってくれる。ありがたいことなのだが、私にはつまらない。一度、そんな集団修行に参加したことがある。大きく立派な寺院の、広い講堂で、白衣を着た500人ぐらいの女性たちと一緒に瞑想をするのだ。別に女性に限ったものではないのだけれど、圧倒的に女性が多い。布施によって食事は豪華(普段私が食べるものと比べてという意味で)。シャワーや布団も完備。参加者はみんな一様にいい人たちで、優しくニコニコしている。

でもこの人たちには、東北タイの小さな農村で、文字の読み書きもできず、タイ語も喋れない老女が、村一番の積徳家であることなんて理解できないのだろう。

家に米以外の食べ物がない人が、唐辛子と米と道ばたで摘んだ白い花だけを僧侶へ寄進する。何か行事があるときは、家族を守る精霊にご馳走の一部を取り分けて、土の上に置く。子どもの病気は、積徳が少なかったためではないかと悩み、より一層積徳に励みつつ、悪霊を祓う儀礼も行う。

そんな無名の多くの女性たちの行為によって、仏教は日常生活のなかで今まで支えられてきた。決して仏教知識だけが継承されてきたのではなく、行為そのものが宗教の核となっている。宗教とは、なんぞや?その質問の捉え方自体、一つの社会のなかで一律のものではない。

異文化の人々の出会うことによって、自分の生き方を振り返ることができる。自分は、何を信仰しているのか。私も村の女性たちと同じように答えるだろう。
「仏教なんて勉強したことがないから、わからない。でももうすぐお彼岸だから墓の掃除にいかなきゃ。あ、その前に死んだ友達の家に挨拶にいかなきゃ。お布施はいくらにしようか、、、」
私も宗教実践の継承者。死者にも生者、すべての人に感謝しつつ合掌。マリコ
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by chachamylove2003 | 2008-03-16 17:49 | 仏教

アンコールワットのとなり

久々のブログ更新なのに、なぜかカンボジア旅行の話。

確か1999年のことだったと思う。東南アジアといえば、タイしか知らない私が初めて他の国に遊びに行った。タイの隣国カンボジアへ。

カンボジアと言えば、アンコールワット。タイから陸路で行った。島国育ちの日本人である私は、陸路で国境を越えることが大好き。国って何だ?誰が国境線なんて決めたんだ?ってなことを考える原点でもある。

アンコールワットは大きかった。高いところにある祭壇に上ったら、高所恐怖症で降りることができなくなり、知らない人たちに励まされてフラフラになりながらやっとのこと降りたり、雨季だったため大きな水たまりをバイクで走ったり、、、。観光客として観光できることが嬉しかったり、、、。それにしても日本人観光客が多かった。私が地図を拡げて見ていると、必ず日本人の高齢男性が声をかけてくれる。
「僕、アンコールワットは5回目だから、何でも聞いて。どこに行きたいの?」
他にもタイ人観光客が多かったので、世間話をしてみたり、、、それなりに楽しいときを過ごした。

ただ石の固まりを3日も見ていると、少し疲れてくる。そんなとき、アンコールの遺跡群に隣接して真新しいお寺があることに気づいた。外国人観光客は行かないが、地元の人は食事などを持って行っているようだ。アンコールワットが過去の寺院とすれば、ここは現在の寺院。今を生きている人々のための宗教の場。

私も昼下がりの暑いときに、そんな小さな寺に入ってみた。タイに長い間いたことがある私にとって、「あ、タイの寺みたい」というのが第一印象。本堂、布薩堂、僧侶の居住場所、講堂などがならんでいる。キンキラキンの仏像が置かれている講堂に入っていくと、なかでは年配男性が数人お茶を飲んでいた。そして私を見ると、何か言いながら手で「おいで、おいで」をした。お言葉に甘えて、私も講堂に上がると、彼らはお茶を入れてくれた。

ありがたくお茶を飲んだのはいいが,なんせ言葉が通じない。お年寄りたちはなんやかんやと私に話しかけてくるのだが、英語も通じない。お互いにどうしたらいいのかわからなくて、気まずい沈黙が始まったとき、私は仏像に三礼して、三宝帰依のさわりの部分を唱えた。

「ナモータサー、パカワトー、アラハトー」

年寄りたちは、わいわい言いながら喜びに満ちた表情をした。
その時の彼らの会話を、勝手に翻訳すると
「おー、お前は日本人なのに、よくパーリ語のお経がよめるな。えらい!」
そして彼らも「ナモータサー」を唱えはじめ、みんなで大合唱になった。
タイ人の発音と少し異なるが、西洋におけるラテン語のように、上座仏教世界におけるパーリ語は仏教聖典を伝える聖なる言葉。仏教発祥の地インドから東南アジアに伝播するとき、仏陀の御言葉はパーリ語によって伝えられた。だからミャンマーでもラオスでも、「ナモータサー」は同じ。私は仏法僧の三宝に帰依します。

一緒にお経を唱えることができたからといって、それ以上の会話は進まない。私はまた暑い日差しのなかアンコールの遺跡観光へと戻っていった。
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by chachamylove2003 | 2008-03-16 17:07 | 仏教

法事に思う

今日は法事で、お寺へ行ってきました。盛り場のど真ん中にある寺なので、いつもながら、寺の内と外の落差に驚きつつも、久しぶりの心地よい静けさに気持ちを新たにした次第。やっぱり法事は、家よりも寺でやるに限る。なんせ真言宗だから、いろんな道具が必要。銅鑼、シンバル(失礼、何と呼ぶのだろう、、、)、その他諸々、、、本堂の広さとともに、雰囲気抜群。狭い家の中で、やるより音も響いて気持ちいい(不謹慎?)。

今日は、父の十三回忌。住職が言いました。
「亡くなられてから御仏は修行に入り、今、大日如来の元まで来ました。これから先、十七回忌、二十三回忌と法要を続けることで、御仏も益々修行に専念され、、、、」
おいおい、いつになったら成仏できるの?
よく知らないけれど、これが真言宗らしい。浄土真宗などは、もっと早くで法事をやめてしまう。ちなみに、私は早死にした祖父の五十何回忌かをした記憶がある。私が生まれるよりも前に亡くなった祖父なので、当然ながら全く面識がないけれど。

現住職は、私と同年代。親に逆らい、寺を継ぐことを拒否して違う職についたこともある人だから、現代における仏教の将来を不安に思い、在家のための説明責任なども感じていている点は、私も理解できるのだが、タイの仏教との違いをますます感じてしまう。

東北タイの農村の人にとっても、亡くなった親の追善供養は大切なこと。必ずやらなければならない。でもお坊さんを呼んで法要するだけでなく、他の人にも功徳を振り分けるために、食事を振る舞い、映画や民謡コンサートなどの娯楽も提供しなければならない。そのためのお金を貯めるのに、時間がかかり、親の死後何年もたってからする場合もある。だいたいは、死後2-3年のうちに行う。

先祖代々の墓に当たるものはないけれど、最近の傾向として仏塔(ストゥーパ)を建てたり、寺院の壁の建築費を出し、そこに遺骨を埋め込むことで、日本における「墓」のようなものを作る。でもタイでは、名前のある先祖は親ぐらいまで。それ以上は、すべて守護霊化し、固有名詞もなくなる。日本的な言い方をすれば、生きとし生けるものをすべて守るようなカミとなるのだ。

たぶん何代にも渡って同じ所にいる人々と、そうではない人々とは違うのだと思う。東北タイは、1970年代に至るまで、ずっと新しい土地を求めて移住する人々で溢れていた。男ならば、実家を飛び出て、新天地で婿入りすることで、自らのネットワークを広げ、ゼロから富を築くことが当たり前だった。男性だけでなく、家族単位で移住することも日常茶飯事。墓みたいに、土地に縛り付けるものは、足手まといになった。その代わりと言ってはなんだけれど、地つながりでどこにでもある地母神や、小さな仏像など、可動性の高いものに対する信仰はあった。

地母神は、死んだ祖霊に功徳を持って行ってくれるし、親族の誰かが守る小さな仏壇は、それを知る親族全員のための寺院代わりだった。身近な肉親の霊を弔うことを、誰も忘れていない。例え、同じ場所にいなくても。

葬式や法要は、死者のためでもあり、生者のためでもある。死者を中心として、今を生きる人々が生きるための実践。私を中心とする複雑な親族関係の中、血縁関係にない叔母さんと楽しく話せたことが、おそらく追善供養の重要な意味。「あんたは、まだ若いのだから、好きなことしていいよ」ありがとう、叔母さん、ありがとう、お父さん。合掌。マリコ
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by chachamylove2003 | 2007-12-17 00:47 | 仏教

石仏に想う

水俣に行ってきた。活動に関わっていた友達の案内つきだったので、いろいろな話も聞けた。でも一番感銘を受けたのは、海が見える公園にたくさん立っていた石仏だった。

鎮魂のため、宗教を超えて、いろんな人が彫った石仏。豊漁を願うえべっさんもいれば、幼子を抱えた母親もいる。大きく笑っている子もいれば、目を手で覆っている子もいる。様々な想いが込められたたくさんの顔が、海を見つめている。

その後、五百羅漢も見に行った。こちらは長年の風雨によって、かなり摩耗していた。頭のない羅漢もたくさんあった。それでも山腹に並んだ仏たち(羅漢)の姿には畏敬の念さえ抱いた。

祈りの対象として、誰かの身代わりとして、時を超えて息づく石仏。ただの石なのに人の想いが込められると、見る人をも惹きつける。石と言えどもいつかは朽ち果てる。朽ち果てれば、また誰かが彫っていく。

なんでも気持ちの問題と、思ってきた。信仰も占いも自分の心の持ち方次第。でも、こういう物を通して、また形あるものを作るという行為を通してでしか、祈ることはできないのではないだろうか。

石は彫れないけれど、木で仏像を彫ってみる気になった。これまで誘われてもノミを持つことはなかった。だけど、近くに仏師がいるのだから、これも何かの縁だと思って彫ってみよう。木の中に仏の姿を探して。合掌。マリコ
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by chachamylove2003 | 2007-08-10 12:42 | 仏教

またまた悲報

人の命なんてはかないもの。
それは知っている、、、、つもり。
10 歳のときから、母の死に目に会い、婚約者の死に顔を眺め、
父の死にゆく心臓の音を聞いていた。

すでに長く生きすぎたのだろうか。
死んだ人をどのように見送ればいいのか、まだわかっていない。
祈る気持ちと祈る姿勢。
常に持ち続けるのは日常生活の中では無理。

だから線香と仏壇もどき(仏像を入れる器)を用意した。
私が責任を持つべき仏壇には、諸事情により近寄ることができず
先祖代々の墓と書かれた墓石に祈るより他ない。
先祖代々の墓には、いつのまにか誰かが野良猫のための家を建て
そこで巣立った猫たちの糞まみれ。
猫が育ったのはよいが、これだけ臭いとご先祖さんもさぞかしご立腹。

祈りたい。
生者にも死者にも。
そういうとき、人はどこに行くのだろう。

タイに墓はない。
近親者のお骨は、寺の壁や仏塔に収めているのでわかるが
例えばお爺さんより昔になると、誰も知らない。
知らない先祖は、タイの場合昇華されて守護霊となる。
親族を守り、田畑を守り、家を守る。
知っている死者だけを弔えばいい。
それがタイ・ウェイ。

日本もそう。
知っている身近な人の霊はどこで弔うのだろうか。
墓は在っても、親族でない限り供養することはない。
まとめて高野山にでも行くか。
それもまたいいアイディア。

墓やら仏壇やらの問題ではなく
この気持ち、身近な人の死を受け入れることができない気持ちを
どこへ向ければいいのか。
弔い、その過程。
親族でない限り許されないものなのか。

だからお寺の前で買った小さな珍念さんに毎日問いかける。
お線香を半分だけ燃やし、少しだけ語りかける。
今日も私を生かしてください。
無念にも先に逝ってしまった多くの人の分も人生を楽しむから。
そして次の日、楽しめなかったことをまた悔やむ。

珍念さん(この字でいいのか?)は、にこやかに微笑む仏像。
「いいよ、それで」
って言ってくれる。

今日もまた悲報を聞いた。
これから先も悲しむ機会は多くなるのだろう。
珍念さんよ、つきあってください。
私が誰かの守護霊となる日まで。
合掌、マリコ。
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by chachamylove2003 | 2007-01-16 01:17 | 仏教

猫派と犬派

フィリピンで犬に噛まれた人が、狂犬病を発病して死亡。
そう、タイにもまだまだ狂犬病が蔓延している。
しかも私は犬と相性が悪いらしく、意味もなく唐突に噛まれることがある。

例えば何気なく市場を歩いていると、脹ら脛に急に痛みが走ったので振り返ると、犬が私の足に食らいついている。ただ静かに歩いていただけなのに、なぜ?
しかたなく薬局に行って消毒してもらったけれど、「狂犬病の危険性は?」と聞くと
タイ人薬剤師は「このあたりは大丈夫。撲滅したから」と言う。
でも私は知っているのだ。病院には常に狂犬病のワクチンが結構大量に備蓄されているのを。つまりまだまだ狂犬病は多いのだ。
でもまあ、どこに行ってもワクチンが手に入るということで、日本にいるより安心はできるけど。

吠える犬は噛まないというが、タイでは吠える犬も噛む。もちろん吠えない犬も噛む。
よく路地裏で多くの犬(放し飼いされた犬)に囲まれて「チュアイ・ドゥーアイ!(助けて)」と叫んでいる私。助けが来てくれるだけ、ましだと思わなければ。

それに比べて猫はいい。人間に媚びを売らないし、皮膚病も少なく清潔そうだ。

タイのお寺にいると、犬やら猫やら、人間も含めて多くの動物が集まってくる。その中で猫だけは特別扱い。仏像の膝の上に乗っていても、人間もそれほど怒らない。犬なら棒ではたき落とされるのに。そのためキンキラキンの仏像は、猫に取り囲まれて暖かそう(暑そう、、、)。

タイにも猫派がいる。私もそうだから自然とお互いを識別することができる。

猫を見ながら、猫談義。
「マリコ、猫には功徳があるんだよ」
「どうして?」
「お釈迦さんが食べる米を食うネズミを捕ってくれるだろ。だから功徳を積んでいるんだよ。だから犬とは違う」

善行によって功徳を積むこと。そしてその功徳の多寡によって来世の地位が決まる。今、私がここにこうして人間として生きていられるのは、前世においていいことを積み重ねてきた結果。もっと功徳を積めば、来世かその次の来世ぐらいには輪廻を解かれ、転生から解脱できるのかもしれない。いやいや、あのブッダでさえ、200回以上転生を繰り返してやっと解脱できたのだ。私にはまだまだ無理なのだろう。

今、猫であるものは、前世で魚だったのかもしれない。人に喰われ自らを犠牲にして人を養うことで功徳を積み、少し位が上がってほ乳類になったのかも。そしてブッダの食を助け、人の米を守るという善行でもって、きっと来世には人間に近いものに生まれ変わるのかもしれない。

この位階的な世界を下から上へ上がるのは、並大抵のことではない。なぜなら位階の低い昆虫などは、善行を行う手段をほぼ持たない。人間の位が高いのは、金や行動によって命を助け、善を行う手段をいろいろ持っているから、よけいにその地位の向上に拍車をかけることができる。

可哀想なのは、功徳を積まないまま死んだ子供。生きている時間が短すぎて、功徳を積む間もなかった。そんな子供の魂は、なかなか生まれ変わらない。その子のことを覚えている人がたくさんいて、常に心に思い善行を続ければ功徳を転送することができる。

それでも、やっぱりよぼよぼになるまで生きた年寄りの方が有徳。生きている姿を他者に見せるだけでも、人の励みや助けになる。

うちの猫は功徳を積んでいます。私の心の支え。殺生もしない。
だからきっと来世では、どこかで人間として出会えるのではないかと思っている。
合掌、マリコ
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by chachamylove2003 | 2006-11-28 00:23 | 仏教