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異邦人の立場

外国人、その国に所属していない異邦人としての立場が好きだ。もちろん定住して日常生活を送ろうとすれば、様々な障壁に出会うことになる。でも、その社会に帰属していないからこそできることがたくさんある。

それは、ありとあらゆる階級や職種の人々と話すことができること。王族、ビジネスマン、公務員、街の屋台のおばちゃん、カフェーのおねえちゃん、ゲイバーのおにいちゃん、ストリートチュルドレン、、、。タイの人の最初の印象は優しい。

でもそれは、私が日本人であるから。もしビルマ人やカンボジア人だったら、たぶん違う扱いを受けるのだろう。昔、南アで日本人が名誉白人として、中途半端な扱いを受けたように、または金持ちの日本人として。嫌でも、自分の日本人であることを変えることはできない。

タイに行くと言えば、バンコクを素通りして、すぐに東北地方の農村に行ってしまう私にとって、田舎の人々や彼らの習慣は、親しみのあるもの。ところがバンコク生まれのバンコク育ちの人々にとっては、「東北タイ?イサーン?一体何があるの?電気、通ってる?生肉食べるの?」という印象しかない。

東北タイには、常に貧困のイメージが付きまとい、映画やTVなどのマスメディアでも、「田舎者」「貧しい農民」「学歴もない」「可哀想な人々」として描かれることが多い。そんなところに、日本人である私が行くこと自体が、不思議でしかたないようだ。

特に私が、問われるまま、中間層以上のバンコクの人たちに、「東北タイ農村で女性の宗教実践について調査しています」と言うと、一様に驚きの声があがる。

「まあ、可哀想に。村の人は、何の仏教知識もないわよ。あの人たちには、学歴もないし、間違った仏教を実践しているのよ」

中間層以上の人々、特に女性は仏教関連書を読み、瞑想修行を定期的に行う人が多い。そしてある種の宗教団体や僧侶に傾倒している。基本的にお勉強好きの人たち、例えば教育者(でも仏教研究ではなくって、結構理系に多い)、公務員の中間管理職、ビジネスウーマン、商店店主など、最低学歴が大卒。

優しい彼女たちは、仏教を知らない日本人の私に「正しい」仏教を教えようと、お寺や瞑想修行に誘ってくれる。ありがたいことなのだが、私にはつまらない。一度、そんな集団修行に参加したことがある。大きく立派な寺院の、広い講堂で、白衣を着た500人ぐらいの女性たちと一緒に瞑想をするのだ。別に女性に限ったものではないのだけれど、圧倒的に女性が多い。布施によって食事は豪華(普段私が食べるものと比べてという意味で)。シャワーや布団も完備。参加者はみんな一様にいい人たちで、優しくニコニコしている。

でもこの人たちには、東北タイの小さな農村で、文字の読み書きもできず、タイ語も喋れない老女が、村一番の積徳家であることなんて理解できないのだろう。

家に米以外の食べ物がない人が、唐辛子と米と道ばたで摘んだ白い花だけを僧侶へ寄進する。何か行事があるときは、家族を守る精霊にご馳走の一部を取り分けて、土の上に置く。子どもの病気は、積徳が少なかったためではないかと悩み、より一層積徳に励みつつ、悪霊を祓う儀礼も行う。

そんな無名の多くの女性たちの行為によって、仏教は日常生活のなかで今まで支えられてきた。決して仏教知識だけが継承されてきたのではなく、行為そのものが宗教の核となっている。宗教とは、なんぞや?その質問の捉え方自体、一つの社会のなかで一律のものではない。

異文化の人々の出会うことによって、自分の生き方を振り返ることができる。自分は、何を信仰しているのか。私も村の女性たちと同じように答えるだろう。
「仏教なんて勉強したことがないから、わからない。でももうすぐお彼岸だから墓の掃除にいかなきゃ。あ、その前に死んだ友達の家に挨拶にいかなきゃ。お布施はいくらにしようか、、、」
私も宗教実践の継承者。死者にも生者、すべての人に感謝しつつ合掌。マリコ

by chachamylove2003 | 2008-03-16 17:49 | 仏教